白炭技術を日本に伝えた功労者

  中国から最初に日本へ白炭技術を伝来させた人物をご存じですか。
その方は皆さんよくご存じ、平安時代の僧「弘法大師空海」様だったのです。
弘法大師は西暦804年、遣唐使の一行と共に中国に渡り長安に2年間留学されました。
その間、当時としては最先端技術や知識を学び取られる中で、白炭製炭技術も習得されま
した。
日本に帰られた弘法大師は仏教の布教と同時に、白炭技術やその他新しい技術や知識を行
く先々でひろめられました。
和歌山ではやはり「高野山」を拠点に白炭技術がひろめられ、瞬く間に紀伊半島全域にそ
の技術がひろまったと言われています。
日本の炭焼き窯は、一般に熱の周りが早く、効率よく、焼き上がった炭の品質にばらつき
が少ないのが特徴とされていますが、その秘密のとして窯の奥にあけられている排煙口の
位置にあるといわれています。
今でも炭焼き師たちの間では、この排煙口のことを「弘法の穴」などと呼んでいますが、
これもかつて弘法大師がかつて指導されたなごりが続いているのでしょう。


熊野炭と田辺炭  紀伊半島全域に広がった白炭技術は、地元製炭者の努力と研究の積み重ねと、「うばめ がし」などの白炭に適した原木が豊富に繁茂してあったことから、全国でも優秀な木炭生 産地となっていきました。 「紀伊族風土記」には、炭は現在の伊都、有田、日高、牟婁各郡の里山から産出され、中 でも田辺炭、熊野炭は特に名高かったと記されています。 熊野炭は、紀南地方の山村で焼かれた炭であり、また田辺炭は、現在の田辺市周辺(南部 川村も含む)の山村で焼かれ、それらのほとんどは江戸に運ばれいました。 紀州で改良された白炭技術は、後に全国各生産地の模範とされるまでになり、ことに元禄 年間(17世紀末)ごろの備長炭の発明は、日本の製炭業界に大きな刺激を与えることと なりました。
江戸紀州藩と備長炭 紀州藩五十五万石の領内は山地が多く、林産物は藩の重要な財源でした。 紀州藩は当時国内で唯一、珍しく炭の専売を行い、領内各地に仕入方を設け、商品を一手 に集荷し、江戸への販売を通じ現金収入を得、藩の貴重な財源とすると共に住民の救済に も役立てました。