江戸時代、備長炭技術の完成には紀州藩の木炭行政が大きく影響している。
紀州藩は炭を専売制とし、主に江戸に送って現金収入をはかっていた。
この時代、備長炭の名声は良質の木炭として江戸から始まり全国にまで知れ渡っていった。
備長炭をまねようと各藩は努力したが、備長炭技術は紀州藩で温存し、その技術伝習は容易
でなかった。

日向に伝播  紀州藩が備長炭技術を温存していた頃、その中に珍しく薩摩藩では日向炭改良に備長炭調 査を行なった記録が残されている。 当時、鹿児島藩でも日向国内の所領は山地が多く、日向炭もまた藩営として重要な国産物と なっていた。 しかし炭質が上方において高く評価されないので、炭質改良を目的として諸木御仕建掛の山 元藤助ら3名を安政3年に紀州新宮(熊野)に赴かせ、備長窯を調べさせた。 同年の9月に製炭技師である2名の炭山師を雇い入れ、直営の製炭地に同行し、製炭の改良に 努力した。 この経過が「山元氏録」として「日本林制史資料」鹿児島藩編に収録されている。
土佐に伝播  明治時代になり紀州藩の取り締まりが無くなると、温存していた備長炭技術は自由に全国 各地に広められていった。 明治の終わり頃、和歌山県南部川村の炭焼き職人「植野蔵次」はたまたま四国巡礼の時、室 戸に自生するウバメガシがだだの薪に利用されているのを残念に思い、いったん帰った郷里 から息子とともに再度土佐に渡り、備長炭製法を伝えたという。
海外に伝播  現在におかれては、国内での備長炭生産量減少と、消費量増加に伴う不足量を補うため、 海外に備長炭技術を伝播し、国内生産を遥かに上回る白炭が生産されるようになり、商社を 通じ輪入が行われ始めた。 東南アジアでマングローブを原木として焼かれる白炭は「南洋ビンチョウ」と呼び、また中 国でウバメガシを原木として焼かれている白炭は「中国備長炭」と呼び国内で利用されてい る。 これら輪入備長炭のおかげで、備長炭の不足問題は解決できたものの、生産地表示が不明確 な備長炭が出まわり始め、販売店と消費者の間でトラブルが起きるケースも発生し始めてい る。 そうした問題を解決するため、備長炭の流通システムも複数の問屋制を簡素化し、農産物で みられるような産池直送方式に変わりつつある。